こういった厳しい状況が続いて2カ月が経った頃、全国を統括する営業統括部長から突然メールが届いた。
「今近くの○○ホテルにいます。周りには何も言わず、15:00に○○号室に来てください」
という内容はごく短いものだった。
私は何事だろうと思いつつ、その日の商談の予定をキャンセルし、緊張しながらそのホテルの指定された部屋をノックした。
すると入社時の最終面接でしか顔を見たことがない部長が、にこやかな顔で私を出迎えてくれた。
私は部屋のソファに座るよう促され、私が座ると同時に部長は開口一番、
「毎日大変なんだって?」
と言った。
私には何のことかわからなかった。
「えっと、申し訳ございません。何のことでしょうか」
「いや、いろいろな人が藤井さんが所長のいじめに困っているって聞いてるんだ。隠すことはないよ」
私は慌てた。
「いえいえ、確かに厳しいところはありますが、所長の営業技術や知識はどうしてもモノにしたいので、私はいじめられているとは思っていません」
私の正直な気持ちだった。
「いや、いいんだよ。そんなに彼をかばわなくても。全部俺たちはわかっているんだ」
「いえ、私は本当にそう思っていますし、実力のない今の時期は、この状況も仕方がないかと」
部長は少し複雑な笑みを浮かべながら
「ああ、そういえば、もう一人、君の少し前に入った人がいたよね。彼も所長にいじめられていて『絶対許さない。もうこの会社を辞める』と言ってたよ」
と言った。
私はさらに混乱した。
転職した先の上司と合わないとしても、辞めるかどうかはその人の問題である。
子どもではないのだから、本気で辞めたいと思うなら、本人の意思で辞めればいいだけの話だ。
大体「絶対許さない」ってなんだ?
私もそうだが、その本人は転職間もないただの平社員ではないか。
中途入社の平社員が、キャリアも実力も数段上の所長をどうこうできると本気で思っているのか。
それにそもそも、その彼と私は別人であり、彼がどう思おうが私には関係がないことなのだ。
これらのことが一瞬にして頭を駆け巡り、すぐに反応ができなかった。
部長は続けた。
「藤井さん、ちょっと聞きたいんだけど、彼(所長)はいない方がいいかな」
「いえ、今の私には必要です」
「では、質問を変えよう。いじめはやめて欲しいかな」
「いじめとは思っていませんが、物理的に無理な指示や叱責はさすがに厳しいです」
そこで部長は破顔一笑、
「俺はその言葉が聞きたかったんだよ。俺がちゃんとしてあげるから、これからも仕事頑張ってくれよ」
と言った。
まるでそう言わされているような、誘引されているような感じであった。
部長は当時の所長について既に何らかの手を打つ予定があり、そのための証拠や根拠を探していたのだろう。
私は直感的にその所長が、クビか左遷、もしくは降格されるのだと思った。
「ちょっと待ってください部長。私は今の所長がこの場での私の発言でどうにかなってしまうのであれば、それは困ります」
「後が怖い?」
「そうです。おそらく彼(所長)の性格上、報復は必ずされると思います。私はただでさえこの仕事の経験が浅く、慣れるのが精一杯な中、余計なトラブルや神経を使うことは避けたいのです」
「いや、その心配はないよ。絶対報復など起こらないようさせるから」
その温情は大変嬉しかったが、果たしてそう上手くいくものだろうか、と半信半疑であった。
その2週間後、その所長は降格された。
彼は私たちと同じ一営業マンとなった。
私は驚き、少し前に入社した先輩は大いに喜んだ。
「あの野郎、ざまあみろ」
と言っていた。
さらに、私たちより1年半前に入社していた面倒見のいい先輩社員(Aさん)は、
「二人とも本当に良かったね」
と言ってくれた。
このAさんが実は曲者だった。
Aさんは成績も上げており、性格も温和でユーモアもあったため、本社のスタッフからの信望も厚く、部長からも可愛がられていた。
部長に私たちがいじめられていると告げ口したのは彼だった。
当時私たちは苦労していたので、実際にAさんは私たちを助けようとしてくれていたのだと思う。
ただ、一方で社内諜報員のごとく、自分が注目を浴びるために話を大げさに盛っていたことは明らかだった。
しかも始末の悪いことに、Aさんは所長が降格された際、その所長本人に詰め寄られ、告げ口をした内容をしゃべっていた。
この場合、Aさん自身が悪者にはならない、いや、ならないようにしゃべっていることは容易に想像できた。
そもそも告げ口というのは気楽なもので、密告する人間はその内容が良い悪いにかかわらず、ただ他人のことを伝えればいいので、その後どんな状況になろうとも密告者自身に害が及ぶことは少ない。
またそこに、ある事実さえあれば自由に脚色でき、面白おかしく話すことも可能だし、それをネタに聞き手の好む人間を演じて自分を売り込むことができる。
私にとっては、告げ口自体が余計なことだった。
私は当時告げ口をしてほしいと言ったことも、思ったこともなかった。
当時の私は確かに苦労はしていたし、愚痴も多少は言っていたように思う。
だが、私はいつもその所長の期待に応えようとしていたし、その所長のおかげで実力がつき、成長を実感できることはとても嬉しかった。
とはいえ、そこまで想像できなかった私が甘かったのは事実。
Aさんがことの告げ口内容をしゃべったことにより、元所長は私たち二人に強烈な恨みを抱くようになった。
ここからが本当の「グレーいじめ」の始まりである。